TOP > Pua Mae ‘Ole Hula Studio 日記 > 長崎市の歴史
遣唐使の派遣拠点となるなど、古くから海外との交流があった長崎は、日本の端にありながら、日本の「窓」として諸外国から熱い注目を浴びてきました。
この地を治めた大名・大村純忠は、大きな船が係留するのに適した場所だった長崎の港を開港し、1571年にポルトガル船が初めて入港、日本の歴史の大きな舞台として回り始めたのです。
出島のオランダ商館は広さ4,000坪でオランダ人は約15名居住、日本人の使用人が100名ほど居り、オランダ側は年間1億円ほどの借料を払っていました。
同じく居住を許された中国人は広さは約9,400坪で2,000人程度の収容能力をもつ唐人屋敷を与えられました。
出島のオランダ人が厳重に監視されたのに比べ、中国人は比較的自由に出入りが許されていたのです。
唐人屋敷前面の海を埋め立てて中国船専用の倉庫区域を造成し、この地域が新地と呼ばれそれが現在の中華街である長崎新地中華街です。