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Pua Mae ‘Ole Hula Studio | 日記 | 漂流民


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漂流民 (2019.02.11)

文化3年十一代将軍徳川家斉の時代、ハワイはカメハメハ大王がハワイ王国を創り上げた後の時代から、日本人の漂流民がいたことが文献にあります。

ビショップ博物館に保管されています。

日本では漁船などは、一般的に陸地の見える範囲で航海をしていましたが、悪天候で沖合に流されてしまって、運よく捕鯨船に救助され、中継基地だったハワイに上陸する事となったのです。

ハワイに到達した漂流民で、私達が歴史の授業で名を知っているのはジョン万次郎です。

彼は父が9歳の時に亡くなり、病弱な母と兄に代わり家族を養うため働き、14歳で漁船に乗り込みましたが、遭難して鳥島に漂着し143日間を生き延び1841年アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。

日本は鎖国をしていたため故郷へ帰還するすべはなく、乗組員と共にアメリカへ向かい途中ハワイのホノルルに寄港した際、救助された5人のうち4人は下船して、万次郎は1人捕鯨船員となって船に残り、アメリカ本土に向かいました。

頭の良かった万次郎は船長の養子となり、オックスホード学校やバートレット私塾で英語数学・測量・航海術・造船技術を学びました。

数年間は、近代捕鯨の捕鯨船員として働き、後に帰国の決意をして薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸し、鎖国していた日本の番所で尋問を受け帰国することが出来ました。

帰国後は、土佐藩の士分に取り立てられ藩校「教授館」の教授に任命され、1853年黒船来航時は、江戸幕府直参、旗本の身分を与えられ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられました。

造船・測量・航海術・英語の指導、英会話書執筆、通訳、船の買い付けと、精力的に働きました。
1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使の1人として、咸臨丸に乗り通訳として活躍し、明治維新後は開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命されました

鎖国をしていた日本に、西洋知識を広め国外情報提供して大いなる世界観を与えた人物です。

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