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Pua Mae ‘Ole Hula Studio | 日記 | 移民


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移民 (2019.02.08)


ハワイの砂糖産業は1835年、西欧人によるカウアイ島でのサトウキビ栽培にはじまりました。

1848年カメハメハ3世が行ったに土地の分配「グレート・マヘレ」によって、ハワイアンの人達が自分達の食のため植えていたサトウキビは、砂糖プランテーション(大規模栽培)に変化していきました。

砂糖産業が飛躍的に伸びると、西欧人がもたらした今までハワイになかった病気によって、ネイティブハワイアンの人口は減少していきました。

ハワイ王国は、砂糖産業に必要な労働人口確保のため、1852年外国からの移民を受け入れを決定し、1864年にカメハメハ5世が移民局を発足させました。

まず中国が初の移民として来島し続いて、日本・南洋諸島・ポルトガル・ドイツ・ノルウェー・スペイン・プエルトリコ・朝鮮半島の順に続きました。

日本の明治政府は1885年(明治18年)「官民移民」を正式に認め、900名が汽船シティー・オブ・トウキョウ号でハワイに到着し、王国が終わりを迎えるまでに約2万9千人が移民として来島しました。

◎それ以前の話
1806年 安芸の稲若丸が捕鯨船に救助される。
1838年 漂流記「蕃談」にある富山の運搬船長者丸の次郎吉が

1841年 鳥島で米国の捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に救助され、ホノルルに到着した万次郎は、いずれも漂流民で自分の意思で来島した人ではありません。

1868年 後に「元年者」と呼ばれる幕末の混乱の中集められた150名はサイオト号でホノルルに到着しましたが、職人と禄を失った武士が中心だったので、農園の労働に向かず、40名以上が帰国したという記録があります。

◎その後の話
移民は、オアフだけでなく各島の砂糖農園に入植しますが、財を成して帰国する夢は消え、現実の極めて厳しい状況に直面しました。

夢を求めて移民した数は、1920年代までに民間会社による「私的移民」、「自由移民」、「呼び寄せ移民」、ハワイからアメリカ本土に再移住する数も増え総計約22万人の日本人がハワイに渡りました。

当時のサトウキビ畑で歌われた「ホレホレ節」に過酷な労働と生活環境が読み取れます。

カネは「夫」・カチケン「キビを切る」・ホレ「キビの葉を落とす」・メリケン「米本土」米本土に移住するか、日本に帰ろうか、思案に暮れている様子が分かります。

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