TOP > Pua Mae ‘Ole Hula Studio 日記 > 横浜 馬車道 汽車道
横浜に行くと汽車道や馬車道と言った開国日本の近代化にちなんだ名前があります。
幕府は神奈川開港に際し外国人居留地を設け、出入り口に関門を設置しました。
その門の内側が関内で、開港場に至る道が馬車道と呼ばれました。
日本は馬の背に人が乗ったり、荷物を載せたり、駕籠で運んだりしていましたので、西洋の人の乗る馬車は珍しかったのです。
馬車は重いのでその荷重に耐えられる道路が当時はなかったのです。
汽車道は横浜新港地区の再開発に際して、貨物線の廃線を再整備してプロブナードとし、横浜らしい名称を公募、1997年に馬車道をまねて汽車道としたものです。
汽車道には3本の橋梁がかかっていますが、1、2号はアメリカ製、3号はイギリス製です。
明治40年(1906年)当時の鉄道の鉄橋は欧米からの輸入品です。
生産国で一度組み上げて検査し、それをばらして船に乗せて日本まで運び、再度くみ上げて設置したものです。
日清・日露の戦争の後で、第一次世界大戦の前ではありますが当時の日本の橋梁設計・製造技術は外国に依存していたのです。
大桟橋には、今日も外国船籍の大型旅客船が接岸していました。