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カラカウアは、1874年に選挙で国王に選ばれ、1891年まで在位しました。(54歳没)
☆全名
ディビット・ラアメア・カマナカプア・マヒヌラ二・ナライアエフオカラニ・ルミアラニ・カラカウア
ディビット「David]をハワイ語にすると、カーヴィカ「Kǎwika」で、カラカウア王のことです。
ハワイの歌メレやチャントには、特定の人や神・王族を讃えるものが多くあります。
カラカウア王は、「愛される国王、ハワイ国民の誇り、愛すべき王」とあります。
彼は、ハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行いました。
1881年外交関係を改善するためにハワイを出発して、サンフランシスコを経由して、日本・中国・シャム(タイ)・ビルマ(ミャンマー)・インド・エジプト・イタリア・ベルギー・オーストリア・ドイツ・フランス・スペイン・ポルトガル・イギリスを歴訪し、アメリカを経由して、ハワイに戻りました。
王国の経済は砂糖キビ(砂糖産業)が支えていました。
彼はワシントンに出向き、精製前の砂糖を無税で米国に販売できるよう(互恵条約締結)
を結び、王国の経済は成長の一途を辿りました。
西欧人の到来以来、病気でネイティブハワイアンの人口が減り続け、砂糖産業を支えるため、移民を受け入れる必要に迫られ、王国は米国への併合への流れとなっていきます。
日本では、明治天皇と会見して、移民の要請及び、カイウラニ王女と、山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請しましたが、後者は日本政府に断られました。
カラカウアは、その華やかな生活からメリー・モナーク(陽気な君主)とよばれ、禁止されていたフラを復活させた功績で、ハワイ島でのフラの大会「メリー・モナーク・フェステイバル」が開催されています。